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中央式太極拳は南京中央国術館副館長【陳冸嶺老師】により編纂された南京中央国術館正宗太極拳
を起源とする、古式総合太極拳です。
気の武術の奥義は、これ即ち 健康長寿の奥義。
今日、太極拳の医学的健康効果は多くの医学論文で実証されてます。
先ずは気を感じる事から始め、自身の免疫力、自然治癒力を高めましょう。

2015年12月3日木曜日

太極拳は体のワークシェア

T先生の持ってきたニューアイテム!「おてがるスピーカー」。

スマホのスピーカーにかぶせるだけで簡単にスピーカーに早変わり。
100均で購入してきた便利アイテムですね。





さて、太極拳に限らず、流麗な動きというのは観る人を魅了します。

1:動きがキレイ。また、上手いと言われている人は、体を柔らかく使えている

2:体を柔らかく使うということは、関節を柔らかく「使えている」こと。

3:体を柔らかく使えると、流れで動きが行われ、止まることがない

 

180度開脚ができるとか「物理的な柔軟性」はもちろんあるに越したことはありませんが、太極拳では先ず関節の制御を重要視します。

ひとつの関節を大きく使うことよりも、複数の関節を小さく使うことを大事にします。ワークシェアみたいな感じですね。

なので、自分の身体の「感覚」が大事なのです。立禅や基礎練習、型でその感覚をどんどん増大させていきます。これは運動神経でも反射神経でもありません。

 

ゆっくり動く事の理由のひとつがこれですね。身体の各所を感覚で確かめながら、動く。

敢えて非効率にも思える動きを経ることで体に染みついた日常の動作を抑え、そうすることで効率的な動きを目指す。太極拳の目的の一つです。

効率的な動きをすることで肩こり、腰痛、疲労軽減、ストレス減少といったことにもつながっていきます。

 

ということで、太極拳では物理的な柔軟性や運動神経は特に必要ありません。

また、これはあくまでも「自分の身体」との共同作業なので、他の誰かと競争する必要もありませんし、比較する理由もまったくありません。








武術的な観点から観るともう何が何だか(笑)ですが、バレエやアイリッシュダンス的な動きが多く、将来はアクション女優でしょうか。











2015年11月26日木曜日

いかにリラックスするか? 太極拳の目的

太極拳の最大の目的のひとつ。

いついかなる時でも「リラックス」しているか?

「できるか?」ではなくて、「しているか?」 。



肝要なのは、心も体もリラックス。
とっさの時に声も出ないくらい心も体も固まっていては何もできないままで終わってしまいます。
また、常に緊張状態や不安にさらされ続けていれば心も体も壊れてしまいます。




太極拳では、身体の力を抜けは抜くほど「力強さ」が現れてきます。








たとえば水墨画や書道の筆も、軽く持ちながらであっても「力強さ」を表現できます。




必要最小限の力だけで十分なのです。

身体の力を抜いてムチのようにしなやかに動かせば最大の力を生み出すことができるのです。
力を抜くということは、必要な時に最大の力を出すための準備です。
それが武術の極意でもあり、心身の健康のコツでもあります。





毎週の太極拳教室の時だけリラックス!・・・というのもちょっともったいない気がしますので、それを日常でも生かせるように日々の功夫を積んでいただくのが中央式太極拳の方針です。



そして、太極拳は対自意識とともに対他意識も併せ持ちます。それは武術であることを考えれば当然のことです。ここはヨガとは大きく違うところだと思います。



対他意識の中にあって対自意識を芽生えさせることで(ある意味において自信・真我・内在etc)、社会生活におけるリラックスの一助になるでしょう。


2015年11月17日火曜日

カンフーレディ リニューアル

「カンフーレディ」といえば「ひらけ!ポンキッキ」であり、松田隆智である。

そういうふうに考えていた時代がありました。


昨年の事ですが、あの「カンフーレディ」がカバーされたみたいですね。



「カンフーレディ」 水曜日のカンパネラ



「水曜日のカンパネラ」というアーティストが歌っています。


ただ、これよりも

「桃太郎」




♪じいちゃんマウンテン芝カット
ばあちゃんリバーでウォッシュ
ハッ!


♪きびだーん きびきびだーん
おにたーいじ おにおにたいーじ


懐かしいネタが山盛りなのでついつい引き込まれてしまいますね。

2015年11月15日日曜日

「冬」になりました

 太極拳をやって、ほんの少しだけ上手くなったことがあります。

それは手から落としたものをキャッチできる成功率が僅かながらに上がったことです。


上手くいった時の感覚としては、やはり肌の感覚と云いましょうか、物と肌が繋がっているような感じが継続している状態で、それを手繰り寄せるようにできた時にキャッチ成功です。あきらかに反射神経や視覚ではありません。

コツは「慌てないこと」というのが最近わかりました(笑)。
それでもついつい慌ててしまうのはまだまだということですね。
そして、いちいち驚かない。

心が荒れるから「慌てる」。まさに明鏡止水の境地こそ太極拳のめざすところです。




 8日の「立冬」を過ぎて名実ともに「冬」になりました。
寒さはありますが、温度差は減少するので逆に気候は安定してきます。




とはいっても、冬場に体調不良を感じる人も少なくありません。
「冷え症」なんてのもその最たるものだと思います。
外気温の低下もありますが、(夏場の)エアコンや環境・食べ物、また精神的なストレスによる自律神経のバランスの乱れ・・・などが原因として考えられます。


冷え症で悩んでいる方の多くは、事務職などで座りっぱなし、または立ちっぱなしなど、ふくらはぎの筋肉をきちんとつかえていないケースが多いと云われています。

ふくらはぎの筋肉が使えていないと血液の循環も悪くなります。身体の上の方に戻ってくる量が減りますので、冷えがどんどん進行するのです。


さて、「冷え症」と云うのは身体が温まりにくく冷えている状態です。





※画像と内容は関係ありません


「万病のもと」と言われているのはご存じのとおり。
肌荒れ・生理不順・腹痛・体のだるさなどはいうまでもなく、寝つきが悪くなったり、体がだるく重い、寝起きが悪いなど様々な身体的症状に繋がります。



そこで、解決方法のひとつに「太極拳」があります。

基本姿勢によってふくらはぎはもちろん、深い呼吸によって身体の深部の筋肉まで目覚めさせるので、身体が温まりやすく、冷えてもリカバリーしやすい状態になります。

太極拳ならでは・・・のことのひとつに、「陰と陽」「硬と軟」の使い分けがありますね。

身体の表側を硬く、裏側を柔らかく。そしてその逆。今度は内と外。・・・というように「陰と陽」を使い分けます。基本的には呼吸や筋ですが、なによりもイメージ力を駆使する必要がありますね。




陰と陽の二極を設けることで、身体の「気」の循環が起きやすくなります。



最初は思うようにできないかもしれません。
でも、それでいいのです。

できないことに囚われず、できることに執着しない。
心身の健康においても武術(身体操作)においても重要なことです。




2015年11月4日水曜日

第三回 中央式太極拳演武大会 

2015年10月18日に開催された第三回中央式太極拳演武大会。




※見えないように壁に張り付けた管理用タイムテーブルなど



この日は伊勢に次ぐ社格である京都・上賀茂神社で正遷宮(10/15)に伴う「遷宮奉祝」の神事や行事があるおめでたい日でした。


当会の演武大会も三回目を迎え、ようやく演武大会として体裁が成り立ってきたように思います。大会前にデッサン会を開くなど新しい試みもあり、おかげさまをもちまして、様々な可能性を模索することができるようになりました。


画像は、音響とは名ばかりの「CDを入れ替える簡単なお仕事」の合間にこそっと撮影したものばかりです。




さて、演目は「団体の部」と「個人の部」の大きく二つに分かれます。


「団体の部」では各教室の老若男女の太極拳演武が披露されます。

さすがに10分以上は観客も飽きてくるので(笑)、だいたいが5分前後ですね。

当初は先生の(ガイドの)声が入った曲のみでしたが、いろんな音楽を使用するようになってきました。


「集団演武」は他の武術にはない太極拳の特徴のひとつであります。
ひとつの空間、ひとつの時間を共有できることが大きなメリットですね。



「個人の部」は主に各教室の師範・講師陣によります自由演武です。
テーマは各自が独自に選び、披露します。


第一番手は水墨画家・李鴻儒。

李老師による「水墨画の表演」です。その場で大きな紙に即興で描き上げるのですが、あまりにもスラスラと描き出される様は一見の価値あり。



もっとも、私は音響なので位置的にほとんど見ておりません(苦笑)。

今回のテーマは「登龍門」でした。



お次の二番手は、第二回目演武会から始まった「フラダンス」。
京都の女性講師がやるのですが、最初は「エライもんをブッこんできたな・・・!」と思っておりました。しかし、実際に目の当たりにするとそう悪いものではありません。ただ、太極拳よりも楽しそうに見えるのは気のせいでしょうか(笑)。
 

三番手は李老師の「龍形八卦連環掌」。
ややスローテンポの「将軍令」 のBGMがお決まりになっています。

八卦掌はその動きや見た目の美しさから武術に造詣が深くない方でも十分に「鑑賞」していただける武術です。双龍が絡み合う如く、螺旋運動の妙ですね。
もちろん、何気ない動きに必殺の威力を秘めていることはいうまでもありあません。




四番手は「五郎棍」。
A師範の演武です。
実は、特製の重い棍を使っていることに何人の人が気付いたでしょうか?

「重きを軽く、軽きを重く」使える身体操作の見本ですね。


五番手は「純陽剣」。K姉弟子の十八番。
チャイナドレスで舞う剣舞は見事としか言いようがありません。


六番手は「形意拳・鶏形八式」。
今回はなんと師範二人によるコラボ。お二人ともパワー系なので、まさに風神・雷神のごとく豪壮でしたね。

七番手は「形意剣」。こちらも同じく浅野師範と女性講師のコラボ。

女性講師の実際のお年を聞けば驚くくらいの剣の技前でした。


八番手は「二十四枴」。
「二十四枴」とは、剣や棍などの武器術の要素をまとめた短棒術でもあり、護身術でもあります。
杖やステッキ、カサなどを使うことを想定しています。



初めての女性の武器術団体演武。
ようやく新しい一歩を踏み出した彼女たちの躍進が期待できます。



九番手は「太極剣」。私です。そして、初めての披露です。
こういう機会が無いとなかなか覚えないですからね。
これでほぼすべての型を網羅したはず・・・!




※この2枚はipadによる李老師の撮影です。
また、衣装の一部と帽子は会員さんのお手製です。



10番手は「試し割」。案としては第一回目からありましたが、これも初になります。
ふだん何気なくやっているあの技この技の威力を知る良い機会です。


11番手は「太極拳の使い方 例示」。
A師範とK姉弟子のコンビプレイで、これは第一回目からの定番です。

受け身を取り続けたA師範が逃がしきれない衝撃の為に朦朧としてしまったようで、つい「無想の一撃」が放たれてしまいましたが、今回は「肉を斬らせて骨を断つ」通り、軽く食らいながらもしっかりと必殺の蹴りを放ったK姉弟子に拍手。


12番手は再び李老師の「形意五行連環拳」。形意拳・基本の型のひとつでもあり、講師陣が括目して観ておりました。大トリを飾る李老師もノッてきたのか、床が抜けそうなくらい全身を駆使しておりました。

かつて王樹金老師の名代として演武を披露した経験もある李老師の見事な演武でした。





興が乗ってきた李老師が写真撮影の順番を繰り上げてしまい、閉会がゴタゴタしてしまうハプニングもありましたが、無事に終了いたしました。



ではまた第四回演武会でお会いしましょう。


2015年10月27日火曜日

テーマ「チャイナドレス」デッサン会 顛末

演武会レポート遅れております。すみません。



さて、先のブログでも募集をかけておりましたが、当会初の試みである「デッサン会」も無事に終了しました。功夫を積んだ太極拳の女性拳士がモデルなのです。テーマはチャイナドレス。


もちろん着たきり雀のなんちゃってコスプレにはあらず。
正統派チャイナドレス、です。テロテロの化繊ではありません。
着用者も長年功夫を積んだ人間です。


※チャイナドレスは、本来的には北方遊牧民族系(満州族・清朝)の服をベースにした伝統的(?)衣装で、意外に歴史は浅いのです。
欧米のドレスと融合させたもので、1920年代に上海で発明されたものです





それは演武会前の会場にて、ひそやかに開催されました。


私は設営と受付の手伝いに行きました。
開始されたところで、私は荷物の支度のためにいったん自宅に戻ったためどのような様子であったかはうかがい知ることはできません。







デッサン会開始前。モデルと打ち合わせをする主宰ASANO。





参加者からの感想は「予想外に良かった」とのこと。
モデルが「ポーズが崩れない」ことに驚かれていました。太極拳の「立禅」で鍛えた感覚が素晴らしく役に立ったようです。



さっそくですが、いくつかの作品を紹介させていただきます。
ありがとうございます。





























デッサンとは描くことが本質ではなく、観察することが主題である。






ご参加お待ちしています。



2015年10月21日水曜日

第三回演武会 ちょっとだけ!

10/18の「第三回 中央式太極拳演武大会」
無事に終了いたしました。

足を運んでいただいた観客の皆様、参加していただいた会員の皆様、
厚く御礼申し上げます。



少しだけ画像を載せます。





開会前のリハーサル的なもの。
こちらの教室は黒で統一しています。








 今回初の女子団体武器術表演 「二十四拐」。
武器術普及委員(笑)としてはうれしい限りwww
ちなみに二十四拐は護身的総合短棍術です。




道教の「道士服」での演武。
太極拳は道教系。

2015年10月11日日曜日

スローエクササイズとしての太極拳

10月第一週目。新教室での太極拳教室も無事に終わりました。

第二週目は従来の場所ですが、さっそく上履きを忘れてしまいました。


演武会も18日に迫ってまいりました。
デッサン会、演武会観覧、どちらも受け付けております。

もちろん懇親会も、です。








さて、いわゆる「スローエクササイズ」としての「太極拳」ですが、



○ダイエット効果
太極拳と言えば「呼吸」。とにかく「呼吸」です。
身体の有酸素運動でもあり、新陳代謝を高める効果が高いです。
これはダイエットにも効果を発揮します。



○筋トレ(インナーマッスル)

太極拳はインナーマッスルを鍛えたり、身体の動かし方鍛えるのにも最適です。
今までの日常では使ってこなかった体の軸に関連する筋肉群を目覚めさせます。


また、静かでゆっくりした動きを実行するには筋肉の緊張の持続が必要なため、スローな動きでも
しっかり行うと汗をかくほどです。



基礎鍛錬だけでもちょっとやると、教室内が暑くてたまらなくなります。


○ストレス解消
太極拳は心のケアにも役立ちます。

套路(型)はまさに「動く禅」。座禅よりも瞑想しやすいと思います。

呼吸法や武術としての対人、心構えを学ぶことで、ストレス、不安感や恐怖感を
低減させるのに役立ちます。




○整調効果
呼吸、リラックス、重力に逆らわない正しい姿勢を常に学びますので、
腰痛や膝の痛みなどの改善、あるいはジョギングやハードトレーニングで
生じた身体の偏りやゆがみなどのリセットなどをセルフで図ることができます。



○武術と健康は同源

それは陰と陽、内と外、上と下というような関係にあります。



力みや無駄のない、洗練された動きが「武術」の一面と云えますが、
そういう動きができるからこそ、腰痛や膝痛、肩こりなどの解消(健康)につながるといえます。


どんな状況でも、呼吸を乱さないようになれれば、常に冷静沈着でいることができます。
イライラとは無縁の世界です。
 
実は、武術の動きはどれだけ「優しい動き」ができるか、なのです。
カドやトゲのない、優しい動きは相手に気取られないのです。



○あくまでも自分のペース
太極拳は呼吸が基礎です。
吐く吸うの呼吸リズムで動きます。


負荷のかけ方も自分次第です。
低い姿勢(低架)でやれば高負荷になりますし、高い姿勢(高架)でやれば
バランスの鍛錬になります。






これらの動きはほとんど太極拳の型に含まれています。
しかも、それを同時にやるのですから。





2015年9月29日火曜日

上達の秘訣・・・それは素直さ


太極拳がゆっくりなのは、決してお年寄り向けのためじゃありません。
自分自身の身体を知覚し、コントロールするための練習です。

というのは何回かブログでも書いたと思いますが、
実際問題として本当にゆっくり動くと練習にならないんですよね。


しんどくて(笑)。


教室でも本気でやると、けっこう敬遠されてしまいます。


ゆっくりだから覚えやすいとか謳いつつも、実際はビャーっと素早く動きたかったり、
ドカンと力を振り絞りたい欲求が人間にはあると思います。
ゆっくり動くのはあまりにもストイックすぎますね(苦笑)。







そして、ゆっくり動かすのは体だけじゃありません。
脳みその回転、というか思考の周波数も大きな幅にする必要があるようです。
これは頭の回転の速さが求められる世の中で、まったく逆行することですね。













格別な頭の回転、特別な運動神経が必要ないという点ではお年寄り向けだと思います。

太極拳は武術でもあります。武術は弱者が強者に対して生き延びる術でもあり、
そこには「卓越した才能や筋力、体格を持たざる者」という前提が常にあります。

また、太極拳を行法として考える場合、「本来あるべき自分の姿に戻る」という考え方が
根本にあります。
これはあらゆるモノを付け加える「加法」ではなく、どんどん引いていく「減法」なのです。
余計なものをどんどん取り払っていく末に自分が在る、見えてくるという訳です。

例えば、もともと自分の体格や年齢に合ったを筋肉を、特殊なトレーニングで更に太くすることができたとします。仮に、それで一時的に向上できたとしても、必ずどこかに無理が生じ、最後はその代償を払うことになります。

太極拳は健康であっても武術であっても「己を知ること」が重要な課題です。






(私としては健康と武術を分けて書くことは不本意ですが)


筋力、運動神経の優劣ではなく、まずこれを知ることが肝要です。

 



上達については、そう・・・やはり「素直さ」が重要です。

私の経験ですが、私の知人(50代)に「外丹功」を教えた時の話です。
その人におおよその要領といくつかの型を30分ほどレッスンしました。

その人は30分で「外丹功」の要領を身に着けてしまいました。
たしかに型は完全に覚えたわけではありませんが、動きや雰囲気がどうみても「外丹功」。
もう、できているのです。

ここまで早く身に着けた人を私は知りません。


私はなぜそんなに早く習得することができたのかを問いました。
曰く「素直さ」と。

あなたが言ったこと、教えてくれたことを、自分の考えを挟まずに
素直に取り込んだけ、と。



50代であり、膝もよくありません。
ただし、この人の場合、かなりのレベルで客観視ができること。
意識的に無意識になることを怖がらずに積極的に行えること。

ちょっと特殊なケースでもありますが、それでも素直さの重要性を
知るには十分すぎる経験でした。



何事においても学ぶにあたり、体力とか知力とか、学習能力とか、

そういうのはあまり関係ないのです。

いかに教えを取り込めるか、我が出ないか、素直になれるか、
それがひとつの壁になっていますね。


そういう自我の克服は一生ついて回ります。
それこそ死ぬ寸前まで(苦笑)。
自我は邪魔ものですが必要なものでもあります。
二律背反するコレをどうするか・・・大いなる課題ですね。

太極拳で自我と向き合ってみるのもまた面白いかと思います。

ご興味を持たれた方、御見学・体験をお待ちしています。



デッサン会も引き続き募集中です。



2015年9月20日日曜日

ケータイを扱うように

本日は一か月後に迫った「第三回中央式太極拳演武大会」の打ち合わせでした。他にも諸々の協議があり、食事を挟みながら終わったのは14時を過ぎていました。
みなさん、お疲れ様でした。長時間でぐったり感が否めませんでしたね。



協議の後は李老師や師範の講習会でした。
演武会の関係もあり、主に型の確認や主となりましたが、その中で、

李老師曰く、

「剣は神(精神)。なので動かない。体が動く。」
 
久々に観る李老師の形意剣でしたが、圧巻でした。



さて、今度の演武会では女性会員3名が「二十四拐(短棍術)」を個人の部で表演してくれます。練習も頑張っています。今日も早入りして自主練習されてました。

どんどん演武の幅が広がっていくのは喜ばしいですね。










武器術は簡単に云うと「手の延長」です。器物を我が身の一部とするわけですが、そこにはやはり独自の修練が必要になってきます。なので、上級者にはもちろん、ちょっと慣れてきた中級者にはとてもイイ功夫になります。器物を持つ緊張感や気持ちの変化、精密さ、身体の感覚・・・それらを克服したり養ったりするのにはとても良いです。
ピアノなどでもいかに鍵盤に触れる指の力を抜くかが重要になっているようです。あれも力でやっているのはありません。



普段通り、ケータイを何気なく扱うようにつかいこなせばいいのに、剣をもったり棒を持ったりした途端にガチガチになります。不思議ですね。


いうなれば「物の扱い方」なので、練習を積み重ねていけば、物を持つ、あるいは接触することによる肩や腕、目の緊張が軽減できるようになり、日常生活でも十分に役立ちます。ペン、カバン、ケータイ、カサなど、そういったアイテムをガサツに持つのではなく、スマートな扱い方もできるようになります。それは自分の「手の延長」なのですから当然のことなのです。



そして、女性が剣を振るう姿は舞にも似て大変優美なものです。中国剣だけは本当に女性向きですね。




引き続き会員を募集しています。
見学、体験のご応募受け付けております。







2015年9月14日月曜日

それぞれの宮本武蔵

 平常の身体のこなし方を戦いのときの身のこなし方とし、

戦いのときの身のこなし方を平常と同じ身のこなし方とすること。


宮本武蔵 「五輪書」より。



これは太極拳、というより洋の東西を問わず、「武術」の究極の目的でしょう。





現在週刊少年チャンピオンで連載中の「刃牙」@板垣恵介。

クローン技術を駆使した結果、宮本武蔵が現代に復活し、主人公の刃牙をはじめとした様々な武術家や格闘家と戦うストーリーになっています。

板垣恵介が描く武蔵はまた独特の雰囲気があって、非常に良いと思います。
「バガボンド」の武蔵とはまた違う趣がありますね。

板垣は作中で「バガボンド」ひいては吉川栄治に系譜をつなげる武蔵像およびを否定気味に描いています。

*******

地下闘技場にて宮本武蔵と烈海王が戦い、烈海王の敗死をもって決着となった。




徳川翁が武蔵に問う。
烈海王とかの天才剣士・佐々木小次郎とはどちらが強かったのかと。

黙考する武蔵。


「あッ」
「船島だ」


と、武蔵はふと思い出したように船島――巌流島の正式な名称を言う。







そして佐々木某呼ばわり。

徳川翁「忘れてたっぽいが・・・?」
宮本武蔵「いやいや何を言うとる」「思い出したではないか」

*******


吉川栄治によって佐々木小次郎のよくある美剣士のイメージが定着してしまったことはいうまでもありません。それをここでバッサリと否定したというわけで(笑)。

烈海王を「関ヶ原の合戦」並みの手ごわさであったと評しましたが、一方の「バガボンド」では武蔵と小次郎が初めて出会ったのが「関ヶ原の合戦」なんですよね。




また、現在の進行状況では、宮本武蔵は訳ありで警察署の剣道場において現代剣道の最高峰の選手と竹刀で対決しますがこれを一撃で秒殺・失神。 その後に現れた合気柔術の渋川先生と対決モードに入っています。



が。






さっそく渋川先生が(イメージ刀で)斬られました。
(左腕ごと首を斬られるイメージを感じたわけで)。


老獪で百戦錬磨の渋川先生が油断していたわけはありません。地下闘技場での戦いも見た後ですし、まして相手は常人離れしたオーラの持ち主なのですから。よそ見も計算のうちでしょう。


しかし、おそらく相手の間合いを「素手」前提で考えていたことが失敗だったのではないかと。よそ見も誘いの内かもしれませんが、まさか(イメージとはいえ)斬撃が来るとは思わなかった・・・と。





吉川栄治でもない。「バガボンド」の井上版でもない。板垣版の宮本武蔵の描き方が面白くて毎週楽しみに読んでいます。




2015年9月6日日曜日

美しき太極拳女子を応援します-06 夏老け対策

秋になりました。

旧暦では当の昔に秋になってますし、来月の10/21には土用に入るので、それを過ぎるともう冬です。いちおう世間一般の流れに沿って御挨拶しておきます(笑)。

いろいろと美容、健康、自分磨きの美辞麗句を見かける季節になりました。夏はどちらかといえば肌を出す季節なので「美容」がイチオシでしたが、秋はどちらかといえばケアですね。



夏のお疲れ肌とか日焼けの後始末とか、


エアコンによる乾燥や冷え、日焼けなどで夏に蓄積された肌のダメージは、実年齢より老けてみられることを指す「夏老け」をもたらす。

出典「『温感美容』で夏の肌ケア エステローラーなど市場拡大」:イザ!

「夏老け」ですか。コワいですね~。







夏肌疲れだけでなく、体力などの落ち込みも秋や冬に持ち越さないための様々なフィットネスやプログラムがあります。各所でマラソン大会などもあり、いろいろと挑戦しがいのある季節です。


基本的に太極拳は力でも何でも「出すこと」がコンセプトなので、とうぜん、気でも老廃物でも疲れでもストレスでも出し切ることができます。 とにかく溜め込まない。人間は深く吐くように云われてもまず吸い込んでしまいますよね。太極拳はそれでさえも先ず息を吐く事、吐き切ることから始まるのです。


肺から息を出す。腎臓から不要な水分や老廃物を出す。腸からも搾りかすをどんどん出す。心臓は血を体中に押し出す。肌もどんどん汗を出す。人間、取り込むところは口と鼻だけですが、出すところはたくさんあります。このように呼吸を基本として「体の外に出す流れ」を身に着けると新陳代謝が促進されます。また、それこそあちこちでもらってくる(というより取り込んでしまう)不要な「気」を排出する狙いもあります。


一方で、心の方です。





太極拳のゆっくりとした動きは、姿勢(重心、軸)の変化を自分の意識で確認しながら動くことが基本のひとつにあるからです。そのゆっくりした意識的な動作が脳を刺激します。
変な言い方をすると、とても「忙しい」のです。

手足腰が同時に動き始めつつ、目線を水平に保ち、肌の感覚で空気を感じ、身体の陰陽を意識しつつ呼吸も忘れないで云々・・・。こんな感じです。

こういった感覚の刺激が常に脳に伝わるという点が、ジョギングなどほかのフィットネスにはない特徴です。ブログでも何度も書いていると思いますが、太極拳の動作は呼吸との関連が深く、一定のリズムで深い呼吸をともないながら動くことで、脳内のセロトニン神経を活性化する効果があるといわれています。セロトニンにはストレスを減らし、心の安定を保つ作用があり、脳内のセロトニン環境を整えることで、不安を解消し精神を安定させる狙いがあります。


こうして心身ともにリフレッシュを図ることができます。
太極拳は忙しいと書きましたが、もちろん初心者には段階をおって指導いたしますのでご心配なく。

多くの方が太極拳を始めて、自分の身体の動かなさに戸惑います。これだけゆっくりなのに、どうして?と。それは動き方が一般的なスポーツとは異なる上、リラックスして感覚重視で動くためです。
普通は運動すれば体は興奮状態になります。太極拳は心身ともに興奮状態になってはいけないのです。それは太極拳に限らず武術全般がそうです。自分は「明鏡止水」のごとくの心持であらねば、どんな外敵・危難から我が身を守ることなどできないからです。


出すことも動くことも感覚。動きのある瞑想。太極拳は他の誰でもない自分自身の身体との対話なのです。








自分自身との対話は、まさに自分を絶対の「心の拠り所」にできることにつながります。他への依存でもなし、他の目を気にすることもない。他を制する前に自分自身を知ることが、武術でも健康でも最重要になるからです。




2015年9月1日火曜日

馬齢を重ねる



「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」

謙虚な態度の大切さを謳った言葉でありますが、本来的に考えるといろいろと面白いですね。

稲はいきなり実っていません。芽が出て、成長して、花が咲いて、稲穂になって、その重みで垂れるのです。
ということは、若いうちは頭を垂れていなかったことになります。
若いうちから謙虚であることは大事ですが、多少の傲慢さは許容されるということでしょう。
あるいは傲慢さやおごり高ぶりによって痛い目に遭い、その経験が多ければ多いほどそれらは自分の財産になる、
ということでしょう。

そうやって年を重ねながら貴重な経験をした後で、謙虚になるくらいな気持ちでいようということでしょう。


また、「頭を垂れる」ということですが、ひとつ気を付けたいのが、
稲穂は自らの意思を持って頭を下げているのではないという事です。

物理的にも、実った稲穂の重みで垂れているのです。

自分自身が意識をしながら謙虚になっているのではなく、ごくごく自然に、
ごく当たり前に、謙虚な生き方になっているよう(稲穂が実る)にも思えます。

「謙虚に生きようとする」のではなく、自分自身の実りを実感し、
それを受け入れている人はことさら謙虚に「生きよう!」としなくても、
自然に謙虚になっていくということでしょう。



そう考えると、これはなかなか難しい(笑)。

自我と真我の話になりそうですね。だとしたら、世の中のご無体なふるまいのご老人に腹を立てても仕方のない事です。

だって、そういう人たちは「謙虚」という稲穂が実らなかったのですから。



単刀直入に云いますと、傲慢なご老人も増えました。
電車の駆け込みなんてのはお手の物。降りてくる人よりも早く乗り、いち早く席を確保する。あの時の身のこなしだけは異常に素早い。太極拳も顔負けです(笑)。
道路は堂々と横断する。運転していて「このタイミングで横切るかっ!?」と驚かされることもしばしば。もちろん、世間における「高速道路逆走」の大半が高齢者なのは云うに及ばず。

ひたすら孫を甘やかす。叱ることもできません。「おばあちゃん子は三文安い」という言葉もありますが、意味を今一度良く考えてもらいたいものです。あなたの「我よし」な自我欲求が子供の未来と精神的成長をつぶします。


そして先日。教室にいきなりご老人が闖入してきました。片手に紙切れをもって 何やらわめいています。どうやら会場となる部屋が分からなくて、うちの教室に飛び込んできたようです。受付の人がどうたら、何々が何々でくぁwせdrftgyふじこlp・・・・完全に迷子です(笑)。先生も呆気にとられています。なんでこちらが文句や愚痴を聞かねばならないのですか?

仕方がないのでそこの部屋まで案内してあげましたが、もちろんお礼の一つもなく。
まさに「傲慢」。

まして、ここは借りているとはいえ「教室」が開講されているのです。そこにいきなり挨拶もなく入り、童のごとく不明瞭な発言を繰り返すとは非礼にもほどがあります。
 

ひさびさにご無体なご老人を目の当たりにし、これで「年寄を敬え」という方が無理というものでしょう。

私よりも長く生きているはずなのに、今までの人生で何を学んできたのか?

まさに「馬齢を重ねる」ものだと皮肉りたいですね。



幸いにして、中央式にはこのような方がおられません。なのでどうしても比較してしまいます。



中央式太極拳は「お手軽楽々健康体操」ではありません。
文字通り「功夫」であり、日本的にいえば「行」なのです。

健康の回復や身体操作の上達のためには「素直さ」と「謙虚さ」が嫌でも必要になってくるのです。









ただ、私、「実るほど・・・」の言葉があまり好きじゃないんですよね。

理由をいいますと、アレなんですよ。



「火垂るの墓」で有名な「西宮のおばちゃん」が言ったセリフでもありまして、
あのおばちゃんの顔がちらつくので、けっこうイヤになるのです(苦笑)。







こういう画像も貼られてました



先日も同作品の放送がありましたが、ネット掲示板では恒例の「西宮のおばちゃん論争」が
繰り広げていました。「西宮は悪魔の棲む街」とまで言われてましたが、
今回、多かった論としては「正論だがムカつく」です。



「西宮のおばちゃん」に関しては、人間の、状況におけるいろんな側面を凝縮した、
ある意味において傑出したキャラクターとも言える点はすごく評価しています。


2015年8月25日火曜日

悔いのない人生は味気ない

************

映画「グランドマスター」
数ヶ月前の映画になりますが、私たちの武術で2種類も重なっているので、
武術格闘映画のつもりで見に行きました。
映画では八卦掌(はっけしょう)、形意拳(けいいけん)と太極拳ではなく、
詠春拳(えいしゅんけん)でしたが、興味深く鑑賞できました。
そして、2回も見ました。
チャンツィーの華麗な八卦掌もさることながら、心が折れた彼女が、
強がって言った言葉「悔いのない人生は味気ない」に、心を打ち砕かれました。

2回目は余裕で見ましたが、ボロボロ泣いて観ている女性がいました。
チャンツィーが毛皮コートを着て、弟子を連れて登場するシーンもかっこよすぎ。

この言葉が、ずっと残っています。・・・今頃書くなと非難浴びそうです。


************



A先生の投稿をこちらにも転載しました。(A先生語録)


「悔いのない人生は味気ない」

深みのある言葉です。


失敗をし、損をつかみ、後悔にまみれ、傷つき、上手くいかないことがある、人生。

普通ならば、後悔の無いように、悔いの無いように・・・と云う人も多いでしょう。


ところが。
これが行き過ぎると「後悔の無い事」に「執着」が芽生えてしまうのです。心が囚われてしまうのです。何事においても後悔しないこと、悔いのないことばかりをめざし、またそういう結果を強く望んでしまうのです。

後悔しないがいつのまにか失敗しない、損をしない、そういうことにすり替わってしまっている気がします。得ることばかりに気が行って、「後悔しない」というのは得られなかった時の言い訳に使われてしまっています。

本来的には「後悔のないこと」とは物事に執着せず、いかなる結果であっても

「それも仕方がない」くらいの心構え。

これはしかし、自分の逃げる心やあきらめではありません。逆に、武士のような潔さと、思い切り、真剣さ、時には自分の命懸けを内に秘めた「仕方がない」なのです。


だからこそ「悔いのない人生はつまらない」のです。




これは「本来無一物」という言葉に近いものを感じます。
それは死を基準に人生を考えているのです。

ところが現代の多くの場合は、長生きの幸か不幸か、「老後」に基準が置かれた価値判断、行動がなされています。

老後は今より体力は衰え、記憶力も弱くなり、仕事も失うかもしれません。
老後のために、ある程度の貯金が必要になるのも間違いありません。一見すると、至極まっとうな考え方ですが、「老後」に照準を合わせると、ほぼ必ず、保守的な生き方になります。



危険を冒さない代わりに貯金には必死になります。
そして大なり小なり冒険をしなくなります。冒険をしなくなるため、同じ毎日の繰り返しになり、刺激も感動も少なくなります。出不精になり、さらに無難な選択ばかりを選ぶようになります。
より老化が加速するのです。

病気の話と悪口、孫の話で毎日が終わります。




誰でも、いつか、どこかで死を迎えます。

「悔いのない人生は味気ない」とは、潔さやある種の深い覚悟を内包したすばらしい文言だと思います。







よしあしハ 目鼻口からでるものか

2015年8月13日木曜日

太極拳は三位一体の話

体と心と魂の駆け引きです。
まぁ、太極拳に限った話ではありませんが。


人間は今「現在」を生きます。そして現在は一瞬の内に過去になり、
生きる予定にある「未来」に至ります。


動物はこのような観念がありません。
そこが人と動物の違いであるといえますが、別に人間様がエライということはなく、
時間を知ったことで「経年劣化」をはじめとした盛者必衰・諸行無常の真っただ中で生きねばなりません。



今現在を生き、未来へ向かうその判断材料は「過去」ですが、心にあるのは現世の記憶だけです。

明日を考えるのは心です。
ところが体は今現在、この瞬間だけを考えます。

そして、魂だけが遙か遠い遠い過去と、そして(終末を含めた)未来をも視野に入れています。
でも、見えているものを教えてくれません。


まとめると、
心は現世の過去と明日。
魂は前世の過去(遥か遠い遠い過去)と未来。
体は今現在。

さて、「聖書」「仏教聖典」、そして「イスラム」でも愛を多く経験すれば
この世への輪廻は無くなるとあります。
仏教的にいえば「渇愛」の気付きですかね。
我が欲するところを知るというか、欲するためにわざわざ不足を生じさせる自我こそが云々・・・というやつで。

※ここでいう「愛」とは「LOVE」ではありません



体、つまり肉体は楽になること以外考えません。
それは今現在を考えて判断するからです。


美味いものを食すると体は喜びますが、将来、肥満や糖尿病になることなど考えなどしません。
異性と愉しいことをすると体は喜びますが、良くて「出来婚」。下手すりゃ不倫で破滅します。
まぁ、けっこうな業を背負ってしまいます。

「太極拳って思ったよりしんどい」なんて云う言葉はここから出てきます(笑)。

体は楽をしては長生きするようにできていないので、心が抑制するのです。
太極拳は体をいじめます。「もうこの動き方でいいぢゃん」と面倒くさくて投げ出す
体をいじめて教え込むのです。


体は愛を多く経験するためにあるので 楽をすると本来の機能を発揮しません。
しかし、体の機能(仕組み)はそんなことは意に解しません。 

「健康のために!」などと心は解かっているのですが、実体が無いので体に負けます。

多くの宗教で修行するのは その体の機能を理解し、節制・制御するために行われます。
武術の背景にも宗教ないし類似した教義、あるいは道義があるのは、そういった目的もあります。

ちなみに太極拳は道教です。



いつ来るか、いつ必要になるか わからない愛という実態の無いものを得るには
体の苦痛・欲望等をコントロールする必要があります。
お釈迦様ですら「色情」は消すものではなく「そこに置くもの」としているので、かなり強力です。

※色情は単に性欲だけに留まりません。良く見せよう、良く見られたい、そういった類も含みます。


ところが、肝心なところで楽をするために、機会を逸します。

「ああ、なんか続けていても効果ないし・・・」
「丹田なんかよくわからないものより、手先の型だけ教えてくれたらいい」

体の大勝利というわけです。





この、今現在と明日。そしてもっと先の未来。

「余生短い年寄だから」といって「逃げる」「言い訳」する人もいますが、
はたして「死」がゴールなのか?? 

何かにはたと気付くだけなら死ぬ一秒前でもできます。
しかしてどれほどの心を持っているか、ですね。


魂はジャッジだけなのだそうで、意見はしません。してくれません。
要するに良心や内在神のような存在で、特に働きかけることもありません。
ただ、感じることはできるそうです。



宗教的なお話になりますが、この魂というものは生まれ変わるタイミングと、
生まれる場所を選択するだけです。主審のようなものです。

魂は、時間が永遠であることを知っているので焦りません。 
いつかは必ず人は成仏(唯物的に云うなら成物www)するものだそうで。





太極拳は三位一体の話

体と心と魂の駆け引きです。
まぁ、太極拳に限った話ではありませんが。


人間は今「現在」を生きます。そして現在は一瞬の内に過去になり、
生きる予定にある「未来」に至ります。


動物はこのような観念がありません。
そこが人と動物の違いであるといえますが、別に人間様がエライということはなく、
時間を知ったことで「経年劣化」をはじめとした盛者必衰・諸行無常の真っただ中で生きねばなりません。



今現在を生き、未来へ向かうその判断材料は「過去」ですが、心にあるのは現世の記憶だけです。

明日を考えるのは心です。
ところが体は今現在、この瞬間だけを考えます。

そして、魂だけが遙か遠い遠い過去と、そして(終末を含めた)未来をも視野に入れています。
でも、見えているものを教えてくれません。


まとめると、
心は現世の過去と明日。
魂は前世の過去(遥か遠い遠い過去)と未来。
体は今現在。

さて、「聖書」「仏教聖典」、そして「イスラム」でも愛を多く経験すれば
この世への輪廻は無くなるとあります。
仏教的にいえば「渇愛」の気付きですかね。
我が欲するところを知るというか、欲するためにわざわざ不足を生じさせる自我こそが云々・・・というやつで。

※ここでいう「愛」とは「LOVE」ではありません



体、つまり肉体は楽になること以外考えません。
それは今現在を考えて判断するからです。


美味いものを食すると体は喜びますが、将来、肥満や糖尿病になることなど考えなどしません。
異性と愉しいことをすると体は喜びますが、良くて「出来婚」。下手すりゃ不倫で破滅します。
まぁ、けっこうな業を背負ってしまいます。

「太極拳って思ったよりしんどい」なんて云う言葉はここから出てきます(笑)。

体は楽をしては長生きするようにできていないので、心が抑制するのです。
太極拳は体をいじめます。「もうこの動き方でいいぢゃん」と面倒くさくて投げ出す
体をいじめて教え込むのです。


体は愛を多く経験するためにあるので 楽をすると本来の機能を発揮しません。
しかし、体の機能(仕組み)はそんなことは意に解しません。 

「健康のために!」などと心は解かっているのですが、実体が無いので体に負けます。

多くの宗教で修行するのは その体の機能を理解し、節制・制御するために行われます。
武術の背景にも宗教ないし類似した教義、あるいは道義があるのは、そういった目的もあります。

ちなみに太極拳は道教です。



いつ来るか、いつ必要になるか わからない愛という実態の無いものを得るには
体の苦痛・欲望等をコントロールする必要があります。
お釈迦様ですら「色情」は消すものではなく「そこに置くもの」としているので、かなり強力です。

※色情は単に性欲だけに留まりません。良く見せよう、良く見られたい、そういった類も含みます。


ところが、肝心なところで楽をするために、機会を逸します。

「ああ、なんか続けていても効果ないし・・・」
「丹田なんかよくわからないものより、手先の型だけ教えてくれたらいい」

体の大勝利というわけです。





この、今現在と明日。そしてもっと先の未来。

「余生短い年寄だから」といって「逃げる」「言い訳」する人もいますが、
はたして「死」がゴールなのか?? 

何かにはたと気付くだけなら死ぬ一秒前でもできます。
しかしてどれほどの心を持っているか、ですね。


魂はジャッジだけなのだそうで、意見はしません。してくれません。
要するに良心や内在神のような存在で、特に働きかけることもありません。
ただ、感じることはできるそうです。



宗教的なお話になりますが、この魂というものは生まれ変わるタイミングと、
生まれる場所を選択するだけです。主審のようなものです。

魂は、時間が永遠であることを知っているので焦りません。 
いつかは必ず人は成仏(唯物的に云うなら成物www)するものだそうで。





2015年8月7日金曜日

「柔軟性」にこだわらないで! 

当太極拳教室では脚が高く上がることを求めていませんし、
要求もしていません。

なので、身体が硬いとか、脚が上がらないから恥ずかしいとか、
そういうことは一切ありません。

そもそも太極拳に「ハイキック」はありませんので。


180度開脚やY字バランスなどの身体が柔らかい事。脚が高く上がる事etc・・・。

脚が高く上がる。
実質的な運動能力を無視してさえも、
これらはたいへんな「ステータス」であることは間違いのない事実です。
いかに人間が「外見重視」かということを身をもって知らされます。
多くの人は「脚が高く上がる」という表面にしか目が行かないのです。
だから無理からぬことなのですが・・・・。


個人的には「柔軟信仰」とも呼ぶべきモノがあると思います。
柔らかい=運動ができる、というような小中高から大人に至るまで・・・。


さて、その実。
脚を高く上げたために、バランスを取ろうとして身体がガチガチになるのは論外です。
骨盤が傾いていたり、背中が波打っていたり・・・もちょっとどうかと。

身体が柔らかいといっても、筋肉に力が無くて伸びているだけなのか、
それともしっかりと引き戻す力が備わってのことか。
身体の軸をまとめる筋力が無いとダンスのターン等には支障をきたします。
柔らかさは必要ですが、それだけでは踊れないのです。
ダンスでは柔らかさよりも筋肉を欲する女性も多いです。


まして格闘技・武術ともなれば、威力とバランスが伴っていなければ
あまり意味はありません。

ヨガだって、そもそも身体を柔らかくすることが目的ではありません。
(現代ヨガでは柔軟性を求めすぎる弊害が出てきている)


さらに危険なのは「自己流のストレッチ」。
昔やった学校の体育や「テレビでやっていたな~」程度の浅い認識で、
たとえば膝だけを伸ばす目的でひざ裏ばっかりストレッチをすると
「スウェイバックニー」になってしまう可能性があります。

ダイレクトに痛みを感じたり、伸びている、と感じたら、その部分だけの進展や屈曲になります。
自分で痛めつけているだけの結果になることも多いのです。
※ストレッチの弊害はまた書こうかと思います。



そして、見落としの一番大きいところなのですが、
脚を上げるには体幹の筋力が要るということ。
先ほどのダンスと同様に、柔らかさではありません。

脚と云う骨と肉と血の塊・・・10キロ近いんじゃないでしょうか。
それを中心軸から遠いところに上げて、支えないといけないのですから当然です。
中高年で始めた人で、特に運動経験もない方は、
脚を高く上げようとして上手くいかない要因のひとつです。
実際、膝の上げ下げだけでもふらつくことが多々見受けられますから。



太極拳は膝を高く上げることを要求します。
膝を抱え込むようにして高く上げる。それもゆっくりと。
ゆっくり上げて、ゆっくり降ろす。

膝を上げることは攻防や歩法の基本なので、これは絶対に避けて通れません。
ストレッチなども必要なく、基本鍛錬を積み重ねていけば誰にでもできるようになります。
というより、太極拳の基本は指導しますがストレッチは指導しません。

もちろん、太極拳的な「ハイキック(蹴り上げ)」を目指すこともあり、です。
現に姉弟子はその鍛錬に勤しんでいます。


2015年7月25日土曜日

感じることと太極拳

我々は日常で「元気」という言葉をよく口にします。
太極拳あるいは「易経」に基づいて考え学べば、それは万物の源であると知ることができ、
「元気」の言葉の意味と大切さを改めて感じるでしょう。


「元気」が衰えることは、あらゆる創造性を失うことと同義です。、
元気を養うことを意識する必要があるでしょう。

「皮膚」の営み


太極拳は感覚を重要視します。
感覚は自分自身のモノで他の誰のものでもありません。

先生は、どれほど言葉や補助を尽くしても、あなたの感覚に取って代わって教えることはできないのです。
どうしても自分でやりとげなければならない壁が出てくるのです。


皮膚感覚というものがあります。

単純に分けて、皮膚一枚の「外」と「内」。
単細胞生物のように、生物としての最小単位を原初より区切って以来のものです。

外を感じ、また内を感じ・・・。
そして陸上生物としての進化の粋、内包された海。
外に限りなく宇宙にまで広がる世界、内に底が見えないほど深い内宇宙。

多くは語りませんが、ここに「太極拳」の奥深さがあります。
天を知り、地を知り、人を知る。
東洋の叡智である「易経」との繋がりも深いことが、より一層の深奥さをもたらしています。


さて、太極拳では、身体の一つの組織や器官が一つの役割を担います。
「五臓六腑」も人間の色々な感情と関わりがあります。
その中では脳ですら、一器官にしか過ぎません。


人間の体が小宇宙として在る、というのはそこまで珍しい考え方ではなく、
太極拳もまた武術・養生法としてのアプローチの一つにすぎません。

逆に、「小宇宙で在る」ようになることで、武術にもなるし養生法にもなる、
ということかもしれません。


「人間」としての自我や自己を沈静化し、本来の生命としての在るべき姿を
自身に向けて「静観」することが大事でしょう。





正しい起こりの姿が乾でもある。



「天を楽しみて命を知る 故に憂えず」(『易経』繋辞上伝)